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甲南大学生の阪神淡路大震災の生々しい証言
以下に、甲南大学の山本先生から送られてきた大学生の生々しい、その時
の様子を再録しておきます。
甲南大学 山本です
阪神大震災時に震度7または震度6地帯に居た甲南大学生の生の証言をシリーズで送
ります。
丁度1月17日が期末試験の開始日だったのですが、地震で実施できなくなったので、
レポート提出に切り換えました。学科目のレポートが困難な学生には震災の情況報告
でも良いことになりました。私の担当課目のレポートの中から幾つか抜粋します。
適当な Net で流して下さって結構です。
大震災の甲南学生なまの証言(1);物理学科3年次 M.Oda;
- 僕は下宿で起きていました。
何時かなと思って時計を見ようとした時最初の揺れを感じました。
「あっ、結構大きな地震だ」と思った瞬間、ドーンというものすごい揺れと言
うよりは、爆弾を落とされたような感じでした。もう、
必死で下宿を飛び出しましたが、周りの家々も既に倒れたり、
今にも崩れ落ちそうな、そして電柱は倒れ、地面はヒビが入り、
もう言葉になりませんでした。
急いですぐ近くの友人の下宿に駆けつけたのですが、
思った通り一階部分がなくなっていました。しかし、
友人はかろうじて逃げ出しており、
お互いの無事を確かめあった時、
隣の瓦礫の下から男性の助けを求める声が聞こえてきたのです。
すぐに場所を探そうとしたのですが、辺りは暗いし、
下は瓦礫の山だし、声のする場所を見つけるのでさえ困難な情況でした。
3時間くらいかけて友人と2人だけでその男性を助け出しましたが、
もうその頃には太陽が昇り、周りの情況の凄さがよく見
えるようになっており、それはすごい有様でした。
しかし、8時、9時になってもサイレンの音が全く聞こえないのです。
空はヘリが飛び回っていて助けを求める声も聞こえず、
どこに人が埋まっているのかわからない状態でした。
大震災の甲南学生なまの証言(2);応用物理学科2年次 S.Yoshihara;
- 1月15日、成人式で徳島に帰っていたが、
16日に期末試験のために神戸の下宿に戻っ
ていた。
最初にぐらぐらっと揺れて目が覚めた。しばらく天井を眺めていたが、だんだん激しく揺
れだし天井が頭をめがけて落ちてきた。幸いベッドの端の部分が高くなっていたので殆ど
無傷だったが、全く身動きの取れない状態だった。最初は何がなんだかわからなかったの
で、「期末テストにゆけないな」などと呑気なことを考えていた。完全に落ち着くとだん
だん孤独感を感じて寂しくなってきた。それから大声で助けを呼んだ。助けられたのは1
時間半後のことだった。
外に出られてとても嬉しかったが、周りを見てびっくりした。家という家がほとんど潰れ
ていた。電柱とう電柱が道路に倒れていて、電線が低いところにあった。私の住んでいた
文化住宅は、1階が潰れており、2階もかなり崩れていた。「これでよく助かったな」と
思った。
自分がある程度冷静になると、こんどは友人のことが心配になった。その友人の家に行っ
てみると、家族は無事だったが、友人だけがまだ生き埋めになっていた。私も必死になっ
て木をのけたり、瓦をのけたりして、みんなで助け出した。幸い友人は手を少し切ったく
らいで済んだが、体は震えていた。その周辺の家も木造がとても多く、ほとんど潰れてい
た。
国道2号線に出てみると、信号は点灯しておらず、交通は大混乱だった。建物は木造に限
らず鉄筋でもかなり崩れていた。それにとてもガス臭かった。それはまさに ”生き地獄”
だった。行くあてもなく、本山南中学に行ってみたが、体育館は既に老人と子供たちで溢れ
ていたので、グランドに居ることにした。パジャマ姿だったのでとても寒かった。とうとう
夜になったが、寒かったし、余震が怖く眠ることもできなかった。
翌日、別の友人の家に行ってみると家も無事だったので、お金を借りてどうにかこうにか徳島の実家に帰り、両親の顔をみると自然に涙が出てきた。
大震災の甲南学生なまの証言(3);物理学科2年次 Y.Kurihara;
- 1月17日朝、少しの揺れで目が覚めるとすぐに、凄い揺れが来て屋根や壁が崩れてきた。
板などをどけてなんとか自力で脱出すると、ガスの臭いがしていて周りを見渡すと、青木
(おおぎ)の辺りで火が出ていた。僕の住んでいた2階建ての木造の文化住宅は跡形もな
く潰れていた。少しするとガスの臭いがひどくなってきたので、友達のマンションへ行こ
うとしたけれど、いつも通っている道は崩れた家や電柱などで通れずかなり遠回りをして
たどり着いた。パジャマ姿で裸足であったので、とても寒く道路は水道管が破裂して水が
溢れかえっていたので足の感覚がほとんどなかった。友達のマンションまで辿り着いて足
の裏を見るとガラスがささっていたが、感覚がなかったので痛くなかった。
少し明るくなってから友達に靴を借りて僕の下宿に戻って、何か取り出せないかと見回し
たが、とても探せる状態ではなかった。また、友達の所へ戻って実家に電話をかけると運
よくつながり、父が車で迎えに来ることになった。後日、僕が住んでいた所に来て改めて
見て、今生きているのが不思議だった。そこには瓦礫の中に布団があって、その上に花、
お菓子、缶ビール、たばこなどが供えられていた。その文化住宅の一階に住んでいた甲南
大生の死だった。
大震災の甲南大生なまレポート(4); 物理学科2年次 S.Ichikawa;
- すっかり熟睡していた。突然ベッドにたたきつけられるような感じがして起こ
された。部屋中のものが揺れによってどんどん壊れてゆくのを布団越しに見て
いたが、こんなにあらゆるものが壊れやすいとは思えなく、夢だと思った。揺
れがおさまり、なんとか部屋から出た時辺りは地獄絵のようなものが広がって
いて一瞬ボーッとしていた。瓦礫でいっぱいになった階段を強引に降りてマン
ションの前の道路に出た。
急に友人が心配になり友人宅へ走った。友人は無事であったが、隣に住むタ
バコ屋のおばあさんが未だ家の中だと聞き、2人で店のシャッターをこじ開け、
タバコ屋の中へ入った。おばあさんはタンスと棚の間に挟まれて自分では身動
きできない状態だった。僕たち2人でタンスと棚をどかしてどうにかこうにか
おばあさんを救い出した。少し落ち着くと、自分の住居の隣が気になってきた。
たしか、家がもう立っていなくて、完全に潰れていたような気がした。急いで
自分の住居まで走った。そこでは、もう既に救出が始まっていた。人手が全然
足りていなかったので、知らない人と一緒に知らない人を助け出した。こんな
わけで僕は4人の命を助けたことになった。そしてふと気が付くと、体がもの
すごく熱っぽかった。前日から風邪気味だったので完全にインフルエンザにか
かってしまって、39。6度にまでなっていた。
24時間後に親が迎えに来て実家の豊橋へ帰った。避難していた周りの人が
いろいろと世話してくれたので、ものすごく感動した。風邪が治ったらまた神
戸へ必ず行こうと思った。
大震災の甲南大生なまレポート(5); 応用物理学科4年次 S.Kawabata;
- 卒業研究のため自宅でパソコンに向かっていた。その時、あの揺れがきた。デ
イスプレイが小刻みに揺れ始めた。次の瞬間、床に直接座っていたにもかかわ
らず、私の体はどこかから投げ出されたように支えを失い、床の上を躍った。
蛍光灯がぶつかって割れ、デイスプレイの明かりだけになった。それも次の瞬
間停電によって消えてしまった。右の方から棚の本が私の上に降ってきた。私
は頭をかかえてその場にうずくまりじっとしていた。次に後ろの棚から本が降っ
てきて、つぎに右の棚が私の上に落ちてきた。更に後ろの棚が落ちてきて、最
後に後ろからテレビが飛んできた。
揺れがおさまり、「落ち着け」と自分に言い聞かせながらとにかく上着を手
探りで探し、それを羽織って外に出てみた。しかし、周りは真っ暗で全く情況
はつかめなかった。目の前の交番にとりあえず行ってみたが、警官も全く話に
ならない状態だった。ガスの臭いがしていて非常に怖かったのを覚えている。
その後、一人の女の子が母親が埋まっているというので、行って母親を2時
間近くかけて助け出し、避難所まで津れて行ったが、その途中にも家に押し潰
されているのがわかっているのに助け出せない人がたくさんいた。
今は、テレビで映像を見ているだけでも当時を思いだし、震えがくるほど恐
ろしい。
大震災の甲南大生なまレポート(6); 物理学科2年次 T.Kawaguchi;
- 私は新聞配達のアルバイトをしていて、その時は下宿を留守にしていた。配達
の仕事を終えて自転車で配達所の店に向かい、店のすぐ近くにさしかかった時
だった。すると、何かバリバリッという、フェンスが倒れる音でもなければ、
雷が落ちた音とも云えないものが響いたと思った瞬間、激しい縦揺れ、横揺れ
が襲ってきた。私は自分の前方にいた同じ学生アルバイトの女性を助けねばと
思ったが、あまりにも大きな揺れで歩こうにも歩けず、前に倒れるようにして
前進して女性をかばった。そうしていなければ、私は倒れてきた家の下敷きに
なっているところだった。それにあと5分地震が遅れて起きていたら、古いア
パートの1階に住んでいた私は生き埋めになっているところだった。
揺れが終わった後、停電して暗くなった周囲を見て非常に驚いた。辺りはガ
ス漏れのため悪臭がし、木造の住宅の殆どが全壊していた。私の住んでいたア
パートは2階が1階を押し潰すようになっており、手の付けようがなかった。
その時は、ただ生き埋めになった人を救い出すことで精いっぱいだった。
大震災の甲南学生なまレポート(7); 応用物理学科2年次 T.Nogami;
- 僕は東灘区にある下宿先のマンションで眠っていた。突然起きた地震に目を覚まし
外へ出てみると、そこには見慣れた街並みはなくなじみの商店街や飲食店は辺り一
面に倒壊していた。マンションも余震による倒壊があるため立ち入り禁止にされ、
その晩はクラブの先輩達と近所の駐車場で野宿しました。着るものを何も持ち出せ
なかった僕は先輩のスキーウエアなどを借りて何とか寒さがしのげた。
翌朝起きると、今度は LPG 漏れによりこの地域全体に避難勧告が出されていた為
マンションにも駐車場にも近づけず、神戸を離れることを余儀なくされました。乗
り物のない僕は原付きの後ろに2人乗りさせてもらって梅田まで行き、先輩の知人
宅に1泊させてもらい、1月19日にようやく徳島の実家に帰り着きました。
大震災の甲南学生なまレポート(8);物理学科3年次 N.Akita;
(須磨区の多分震度6地域)
- 突然の大地震に目が覚め急いで家の外に出て周りを見渡すと、南の方向では既に燃え
ている家があったが、この時点では未だあのような大火災になるとは思いもよりませ
んでした。ふと我が家の方を見るとわずかに煙が上がっていました。「タバコの火の
消し忘れかな」と思い、5、6軒が一塊になった住宅地でしたので大火事になること
を恐れて、家の中に見に入りました。すると勉強机の上に置いてあった熱帯魚の水槽
の台が倒れて水浸しになり、水温調節の蛍光灯が本やノートに燃え移りボヤが出てい
ました。消化器で消せる程度のボヤでしたが、停電にもかかわらずその蛍光灯は充電
方式になっており、出火には至らなかったものの、蛍光灯の周りは焦げ付いていまし
た。
夜が明けて家の中を見回すと、そこは惨憺たるありさまでした。家の主柱は傾き、壁
に隙間が開き、食器、家具、電器製品などに大被害を受けていました。唯一、ガレージ
の中の車だけが少々凹んだくらいで済みました。それ以来、現在2月10日まで車の
中で家族と過ごし、時には近くの神戸市立須磨高校で過ごしたりの毎日で、最初のう
ちは生きることで精いっぱいでした。
大震災の甲南学生なまレポート(9); 応用物理学科4年次 H.Kamoi;
(これも多分震度6地域だが、古い埋め立て地か?)
- 私の住まいは伊丹市でも一番被害の大きい池尻地区で、築後20年の12階建てマン
ションの7階に住んでいたが、外壁の殆どがひび割れ、はげ落ち、鉄筋がむき出しに
なり、ドアも曲がって閉まらない。屋上の水道タンクが倒壊し、殆どの部屋が水浸し
になった。このレポートを書いている2月3日現在では、立ち入り禁止で、今は近く
の小学校に避難している。私の部屋は洗面所の向かいで玄関に一番近く、窓から出入
りできる。天井から水が降り、教科書やノートはすべて使い物にならなくなった。
エレベータは4基とも下に打ち落とされて壊れている。非常階段を使うのだが、私の
住まいに行くには、棟から棟へ20cm ほど飛び越えないと行けない。というのはマン
ション自体が傾き、裂け目ができていて、下を見ると1階の廊下が見え、上を見ると
青い空が見える。大変危険で、とても恐ろしい。もう住めないと思うが、分譲マンシ
ョンなので今すぐ出ていくこともできない。
大震災の甲南学生なまレポート(10); 物理学科2年次 H.Hirose;
(灘と東灘の堺の山裾の多分震度6地域だが、地割れあり)
- 私は地震で被災し、教科書、資料が取り出せない状態で、レポート作成が困難になり
ました。私の家は12階建ての分譲マンションの4階ですが、下が駐車場で柱がしっ
かりしていたのか途中の階に上からの重みがかかって壁が崩れたのではないかと思い
ます。2日目に8階で火事が発生しましたが、私のところには影響ありませんでした。
私の家の場合、4室のうち和室が一部屋だけ無事であったため、そこで寝起きして
います。廊下側の2つの洋室は壁が大きく崩れ、窓枠と鉄筋が曲がっていて大変危険
なので近づけません。これでも神戸市の調査では「要注意」(黄紙)でした。
現在のところ、水くみと救援物資の調達に費やす毎日です。水道はマンションの受
水槽と高架水槽が潰れてしまい、当分だめです。電気と電話は通じています。
大震災甲南大生なまレポート(11);理学部2年次 T. Chiyo;
- 私はその瞬間、はっと目が覚め、そして、あっと思う間もなく大きな揺れが始まった。私はすぐ
に布団にもぐりこんだ。ただ真っ暗な中であの揺れを感じ、激しい音を聞いていただけだった。
揺れがやみ電気をつけようとしたがだめだった。受話器をとったがつながりそうもなかった。
どうなっているのか把握できなかった。下の部屋からは「痛いよー、痛いよー」と、向かいの
方からは「助けてー」と聞こえていた。私はうす暗い部屋を歩き、窓を開けてみた。そこには
いつもと違う風景が広がっていた。その時はまさか、自分のアパートが潰れているとは思わな
かった。私の部屋では家具が倒れ、壁が崩れ、物が散らかっていた。こうしては居られないと
思い、現金と通帳と印鑑をもって、玄関の扉が開かないので台所の窓から抜け出した。いつの
まにか下からの声はなくなっていた。私は声のする向かいのアパートへと瓦礫の上を渡って行
った。そこは一階がつぶれ、その上に二階がのってるという状態だった。ふり返って見ると、
私のアパートも同じだった。私はそこに埋まっている人を助けようと、その辺りを掘ったが限界
はすぐに来てしまった。近所の人も掘ってくれたが、結果は同じだった。辺りにはガスがたち
込め、アパートも倒れそうだったので、私とその人は生き埋めになった人を残して避難した。
仕方なくその人を置き去りにしたということになる。私達も避難したと言っても、壊れた家々
の間に近所の人達10人ぐらいで集まっていただけだった。周囲の家が倒壊したため、通路が
ふさがれ、逃げ道が見つからなかった。家々の間からは、遠くのほうで煙があがっているのが
見えた。もしこの辺りで火事が起こったらと思うと居ても立ってもいられなかった。どれくら
いそこに居ただろうか。ようやく明るくなってきたところで抜け道を見つけ、国道2号線へと
脱出した。そこから辺りを見渡すとほとんどの建物が倒壊していた。一瞬私の頭には「日本全滅」
という言葉がよぎった。しかし、近所の人が持っていたラジオを聞いて、そうではないとわかり、
一安心した。だが完全に安心できる筈がなかった。自分は助かっても、近くでは生き埋めになっ
ている人もいるし、友人達も無事かどうかわからない。これから先どうなっていくのかどうすれ
ばよいのかわからなかった。後日、アパートに行ってみると、下の部屋の人を救助するためか、
私の部屋は取り壊されていた。そして、そこには花が供えられていた。
大震災甲南大生なまレポート(12);経済学部2年次 K.Okada ;
- 僕は木造2階建の古い文化住宅に住んでいました。地震によって1階部分は完全に押し潰され
てしまいましたが、幸い2階に住んでいましたし、枕元に大きな物も置いていなかったので体
は無傷で済みました。僕は、地震とともに目が覚め、その強い揺れに恐怖を感じ、早く止まれ
と祈るだけでした。わずか15秒前後の地震だったのでしょうが、とても長く感じました。地
震がおさまると、大きな余震が来たらという恐怖とガスの臭いから、急いで部屋を出なければ
と思いましたが、部屋が大幅に変形していて、ドアが開きません。ドアに付いた体がやっと通る
程度の小窓を割って、なんとか外に出ました。しかし、下宿は、細い路地のような所を通った
先にあり、潰れた家屋が隣のマンションにもたれ掛かり完全に路地をふさいでいるのを見た時、
どうしようかと思いましたが、なんとかがれきの間から隣のマンションの通路に入り、そのマン
ションの玄関から道路に出ました。辺り一面立ち込める埃と崩れた家々という光景は、この世
の物とは思えず、ただ映画でも見ているかのようにぼうぜんと立ち尽くすだけでした。
少しして近くの東灘小学校に避難し、震源地が分からなかったので、ラジオからの地震情報に
聞き入りました。そして愛知県の実家では震度3と知り、両親の無事を確信してホッとしました。
陽が昇ると、歩いて10分程度の友人の家を訪ねました。友人の家は、被害はほとんどありませ
んでした。そして二人で大学に行き、被害状況を見るとともに、公衆電話で、家族とわずかなが
らの連絡をとりました。その日は屋内はいささか怖く、友人の車の中で一夜を明かし翌日、心配
になってたまらず迎えに来てくれた両親とともに実家に向かいました。
数日後新しい下宿先を探すために、神戸に戻ってきたとき、なんとか家財道具などを持ち出せない
ものかと思い、下宿先にも行きましたが、余震のためか、それとも行方不明者の捜索のためか、
さらに家は崩れ、中に入ることさえ無理な状態となっていました。
大震災甲南大生なまレポート(13);理学部3年次 M.Imagawa ;
- 僕は、次の日の試験のため、東灘区御影の友達の家に泊まっていた時だった。12時すぎに勉強
を切り上げて睡眠中であったので最初は何が起こったのかわからず、友達のさけび声でやっと我
に返り気がつくと友達と抱き合って布団の中でじっとおさまるのをまっていた。その間、台所の
皿やコップの割れる音を聞きながら。いつまで揺れるのかと思うぐらい長い、大きな揺れであった。
揺れがおさまったとき、当然電気が灯かなくなっていて暗かったので部屋がどうなっているのか
すらわからず、ライターの火を使ってとりあえず外に出てまわりを見ると家は倒壊しているし、
ビルは傾いているし、高速道路の柱にひびが入っているしで、その時になってやっと被害の大きさ、
すごさを実感した。自分の家のことが気になってきて、すごく心配であった。その後結局連絡が
ついたのは夜であったがみんな無事で家も大丈夫ということで本当にホッとした。部活動のOBで
よく世話をしてもらった人が倒壊した家の下敷きになって亡くなってしまった。
その夜は結局家に帰れなかったので、もう一泊することになったのだが電気もなく、余震もたび
たびあったので寝つかれず、恐ろしい長い夜を過ごした。しかも、朝5時過ぎにLPガスもれで避難
勧告が出て小学校に避難した。
数日間、実家でじっとしていたのだが、何かできることはないかと考え、部活動の先輩と同輩10
名ばかりで声をかけてボランテイア活動をすることにした。朝は住吉の甲南小学校に荷物の仕分け
を手伝い、午後からはおしるこの炊きだしをして公園でキャンプをしている人や、避難所の人達に
配った。その場所場所でたいへん喜んでもらえたのでたいへん嬉しかったが、それと同時にそこに
いる人々のつらさや苦しみも身にしみてわかった。地震前の状態に戻るまでにはかなり時間がかか
るだろうが早く復旧して以前よりすばらしい、活気のある街をつくっていってほしいと思う。
大震災甲南大生なまレポート(14);法学部3年次 K.Tsutsumi ;
- 早朝私は起きており、テレビの天気予報を見ていました。急に激しい音とともにテレビが私に跳んで
きたのが目に見えましたが、後は暗闇で分からなくなり、棚や食器などの様々なものの下敷きになっ
ていました。何が起こったのかよく分かりませんでしたが、まず家族に声をかけたところ、全員返事
をしたので一か所に集まりました。窓から外を見るとシーンとしており、とてもガス臭く近所の家と
いう家は倒れていました。その直後また激しい揺れがありました。とりあえず脱出しようと玄関に出
ましたが、すでに道路は完全にふさがれており、裏から出ようと思い外を見渡してみるとガレキの山
で私の目の前で家が倒壊しました。急いで家の外に出るとガレキの下から悲鳴やうなり声が町中でして
いました。私は生きているひとから順にガレキの屋根をはがし、救出しようと思い、応援を頼み近所
を走り回りましたが、まともに残っている所はなく、どこも必死で掘り出していたので、仕方なく5
時間くらいかけて3人救出し、すでに亡くなっている人も多数おりました。近所の魚崎小学校や灘高
には死体が続々と運びこまれました。近所のいたる所で火事が発生し、空は昼間にもかかわらずどん
よりと暗くなっていました。夜になっても空は赤い夕焼けのようでした。
翌日、やっと自衛隊が来ましたがトラック1台だけで救出活動を頼んでも命令がないとできないなど
と言われ、埋まったまま1週間放置されている遺体が点在しているにもかかわらず、何も行動できずに
いました。
私の親は、三の宮で不動産業を営んでおりますが、ビルは半解し立入禁止になっていましたが、なん
とか書類などは取り出せました。家は損傷が激しく初めの1週間は避難所にいましたが、叔父と連絡が
とれ、母だけ避難させ、私と父、兄弟は、家や事務所の復旧の為に神戸中を走り回る毎日です。しかし
亡くなった友人や近所の人のことを思うと命が助かっただけでも本当に有り難いと思います。
大震災の甲南大生なまレポート(15);経営学部2年次 N.Yoshioka
- 私の家は灘区六甲台町にあり、1階が潰れてまるで平屋の家のようになった。私は
2階に寝ていたので無事だった。外に出てみたが、両親の姿はなかった。姉が潰れた
1階の壁の隙間から這い出してきた。耳を澄ますと両親の声がした。人に助けを求め
たが無駄だった。市場の方から火の手が迫っていたので、自分たちで2階の床をぶち
抜いて助けようと思った。2人で必死になっている時に男性2人が手伝ってくれたの
で、ようやく両親を助け出すことができた。あとで知ったことだが、その2人も甲南
大生だった。名前を聞いていればよかった。ボート部らしいジャンパーをきていた。
お礼を言いたい。もう少し遅れていたら両親も家と一緒に焼けていたかもしれない。
この写真は火災にあい、何も残っていない我が家の焼け跡である。早く仮設住宅が
当たって欲しい。
大震災の甲南大生なまレポート(16);文学部3年次 K.Kihara ;
- 私は東灘区田中町の木造2階建てアパートに下宿していましたが、アパートは全壊
しました。縦揺れで目が覚めて、恐ろしい横揺れを数十秒間体験しました。揺れが終
わった後、私の体は水平でなく斜めになっていました。しばらく呆然としていましたが、
電灯のスイッチを入れてもつきません。受話器をとっても電話は通じません。ガスの
臭いがしてきて、とにかく外へ出なければと思って窓から隣の部屋へ欝り、そこから
逃げ出しました。外に出てみたら周りの家もペシャンコに潰れており、ことの重大さに
ただただ驚くばかりでした。近くに住んでいたバレー部の仲間が駆けつけて来てくれて
お互いに無事を確認できて良かったのですが、周りの家で生き埋めになっている人が
いるので、救助することになり、3人ほど助け出しました。3人とも命は無事だった
のですが、1人は両足骨折ですぐに避難所へ運び出されました。
それから、私達も近くの公園に集まろうということで、中の街公園へ避難しました。
そこは周辺の住民達でいっぱいで、座る場所さえないくらいでした。何か出せるものが
あればと、もう一度戻って改めてアパートを見ると、1階は潰れて2階部分も斜めに
滑り降ちて今にも崩れそうでした。部屋の中に入ることができず、結局その公園で3日
間野宿生活をしました。親に連絡が着いたのが3日後で、それから迎えに来てもらい、
広島県の家に帰りました。家に帰ってすぐにバレー部員の安否を確認しましたが、残念
なことに、後輩が1人犠牲になりました。とても悔しく悲しいことでした。
大震災の甲南大生なまレポート(17);経営学部2年次 M.Matsumoto ;
- 今回の地震で西宮市仁川台の私の家は大きな被害を受けました。修理をすれば住める
とのことですが、近くでTVでも報道された土砂崩れがあり、私と家族は夙川(しゅくがわ)
に住む親類の家に行っていましたが、3週間たって家の修理も一先ず済み、仁川台の自
宅に帰ってきました。
西宮市民体育館に友達が避難していて、毛布が無いというので持って行くと家族の方が
泣いていたのが印象に残りました。それで私はトラックで物資を各避難所へ運ぶボランテ
イアをすることにしましたが、道路がすごく混んでいて難儀しました。
この地震で人の命がこんなにもろいものかと痛感しました。そして人と人との暖かみや
触れ合いやというものを感じることができました。
大震災の甲南大生なまレポート(18);法学部1年次 M.Takayama ;
- 私はその時一夜漬で勉強していた。最初軽くぐらぐらっときたが、とたんにまるでジェット
コースターにでも乗ったように揺れだした。私の家族は好運にも怪我一つなかったが、家の
中は全く踏み場がなかった。外のことが気になり、出てみた。そこは言葉にならない異様な
世界だった。幼い頃本で見た”戦後日本”のようであった。私はただ立ち尽くすしかなかった。
するとどこからともなく一人の人が来て、人が生き埋めになっているので助けて欲しいという。
TVで見たくらいしかないので、私に出来るかと思ったが、行ってみるとその家は1階が完全に
潰れ、2階に寝ていたお爺さんの足が太い柱の下敷きになっていた。私はラグビー部に所属
しているので、こんな時こそ日頃の成果をと思って必死になって柱に挟まった布団などをとり
除いて2時間くらいかかってようやく救出に成功した。私はこの日4度救出に行ったが、結局
一人しか助けられなかった。そのなかで、奥さんと子供と奥さんの両親5人で住んでいた男性が
一人だけペシャンコになった家から出て来れたが、1階で寝ていた義父母と2階で一緒に寝て
いた奥さんと子供は生き埋めになってしまった。その現場に居たのは、その男性と私と近くの
人の3人だけだった。1階のお爺さんの声はかすかに聞こえるが、お祖母さんはだめで、2階の
奥さんの足が見えていて、足を叩いて反応を求めたがだめで、子供もだめだった。目の前に
奥さんと子供が見えているのに助け出せない自分の無力さを恨んだ。
私が住んでいる夙川駅周辺は古い家が多かったのと、震度7の激震地区ということで、町内
だけでも十数人が亡くなった。地震のあと、助かった人々がすぐに、自分の家の整理をする前
に生き埋めになった人達を皆で協力して救出に行っていたら、もう少し死者は減っていただろう。
私の町内では、午後3時頃になって街の人々が救出を始めた。
私の家の中は無茶苦茶で、3日間近くの小学校に避難していたが、4日目に宝塚の叔母の家に
疎開した。私は叔母と宝塚市内でボランテイア活動を行ない、救援物資を持って行くと大変喜
ばれ、とてもやりがいのある仕事だった。社会に無関心と言われている若者が、この度のボラン
テイアの中心となっていた。人間としていい経験をしました。
大震災の甲南大生なまレポート(19);法学部4年次 T.Kawase ;
- ゴオーという地鳴りとともに上下左右の激しい揺れに目を覚ました瞬間、「バキッ、メリメリッ」
とものすごい音。そして母親の「生きてんの!」という叫び声。揺れがおさまり上着をとって家の
外に出ると、既に近所中が道の真ん中に集まっていた。皆互いの無事を確認し、口々に何事が起きた
かと話していた。辺りは電灯がすべて消え、妙に薄明かるい空に照らされた道路は無数に大小の
亀裂が走っていた。電柱はすべて傾いていた。ものすごいガスの臭いに近くに居られなくなり、
犬を連れて近所の大社小学校へ向かうと、既に大勢の人が避難していた。皆着の身着のままだ。
四方の空は赤く、何本もの煙が上がっていた。ラジオを持つ人の周りには人が集まり、情報を得
ようとしていたが、まだ正確な情報は把握できていない様子。火はあちこちで上がっているのに、
サイレンの音は聞こえない。
明るくなり、一度家に戻るが、まだガスの臭いがひどく近づけない。風向きの変わるのを見計ら
って家に近づく。玄関の階段も塀も壁も崩れ落ちている。隣の家と我が家が寄り添っている。家の
前の道が1m幅ほどの口を開いて割れている。その地割れがそのまま我が家と隣3軒の真下を通り、
家を2つに割ってしまっている。床から地面が見え、1階の天井からは2階のものが降ってくる。
私の部屋はとても入れる状態ではない。どこからどうやって出たのか今でもわからない。
現在は宝塚市で父の会社の社宅に仮住いしている。西宮の家は全壊で、撤去する予定だが、いつに
なるかわからない。今際、祖母、親類宅に水を届けたり、西宮の家の片付け、荷物の搬出などの
毎日です。
大震災の甲南大生なまレポート(20);理学部2年次 A.Taniguti;
- 自宅が東灘区魚崎北町で家は半壊。あの日、揺れた途端目が覚めた。「地震や」
と気付いたがすぐに収まるだろうと侮っていた。ところが、震度7の激震が我々
を襲ってきたのだ。”ドーン”、下からつき上げてくる音、あの音は忘れもしな
い。身動き一つとれなかったのだ。二段ベッドの下側だったので、上が落ちてき
やしないかとの不安を抱えながら、ただただ揺れが引くのを待つのみだった。揺
れが引いた時、私は”恐い”というよりむしろ”何故?”という気持ちだった。
夢の一コマの続きであってほしいという私の願望から生まれたものに違いない。
それもそのはず、あたりを見ると、一階部分がぺしゃんこになっている家ばかり
なのだから。外では、「お父さーん、お母さーん」と呼んでいる子供の声が閑散
とした町に響いていた。「本当に本当なのかしら?」まだ半信半疑だった。母親
は、顔から血を流していたが、現実の出来事を目の当たりにして、痛みどころで
はなかった。
あの日 -- 私は何を見ただろうか?青木(おおぎ)の辺りから火柱を見た。1本
だけではない。次々に5本ほど見えたので焦った。100mほど先で燃え出したの
だ。火の勢いはおさまらず、どんどん我が家に接近している。消防活動も手こず
っている。ホースがやっと届いたと思えば、水がない。車道のおかげで我が家ま
で火は来なかったが、向かいまで燃え尽くした。生き埋めになっている人を救出
している近所の人。間に合わず息を引きとった人。自衛隊。いろいろ見たが、結
局私は現実から逃避してしまった。祖母の家に避難してからだ。どこにも行くあ
てのない人がたくさんいるのに、本当に申し訳ないと思った。
最近落ち着いてきたので家に戻ってみた。タンスが倒れ、食器が散乱している。
近くの小学校へ行ってパンや炊き出しをいただいた。ボランティアの方々がいろ
いろな方面で活躍しているなか、私も家を片付け次第、今度は人の為に働こうと
思う。
大震災の甲南大生なまレポート(21);法学部3年次 Y.Fujikawa ;
- 住んでいた東灘区甲南町のアパートが倒壊しました。テキストやノートは勿論預金通帳
なども持ち出せず困っています。アパートは道路に面しており、極めて危険ということで
取り壊し作業が早くも始まっています。私は地震後一週間は避難所生活をしていました。
テレビ等で有名になった本山第二小学校です。そこを拠点にして私の住んでいた町の知人
の安否を尋ね歩きました。道路に人が集まっていて奥の文化住宅に人がいるらしいと聞き
ました。私は高校生くらいの若者と中年男性との三人でガレキの中へ入っていきました。
二階の屋根が私の背丈ぐらいの所までせまってきている大変危険な場所でした。やはり中
に人がいました。折れた柱や鉄パイプ等を突っ込んで、その老人のうえにかぶさっている
天井、家具を持ち上げ、ようやく引きずり出しました。その老人以外にも別の建物で老婦
人と中年の女性を助け出しました。病院にも何度か足を運びました。全く見ず知らずの人
間同士で力を合わせて見事なまでの連携プレーに私は自分自身で感動しました。地震後5
日後になって、ずっと気になっていた、私の元アルバイト先の居酒屋のマスター夫婦が冷
たくなって発見されました。私と関係者で確認しました。自衛隊員の手によって運ばれて
行きました。自衛隊や警察、行政機関、マスコミについても言いたいことは山ほどありま
すが、彼らはそれなりに頑張って下さっていたのでしょう。私はこの大地震によって学ん
だことが沢山あります。それらをこれからの人生に役立てて行こうと決めました。
大震災の甲南大生なまレポート(22);理学部2年次 S.Kani ;
- 私の家は東灘区本山中町です。国道2号線のすぐ北側で、本山第3小学校のすぐ西側です。
家の前にテレビ局がよく来ていたので、テレビに映っていたかも知れません。
家の状態は、2階の一部を残して、1階は猫の入るすきましかありません。2階も傾いて
いて、本棚やタンスが散乱しています。また、余震がある毎に、何かが崩れてくるので、
中に入ることができません。周りの家は焼けた家も数多く、我が家は2階の一部だけでも
残っていたので家財も少しは残っていると思います。
家族は全員無事です。父は打撲でしばらく安静にしていました。母は近所の人達に救出
され、家の下から出てくることが出来ました。今は、父の仕事の休みの日に、家の中の物
の発掘作業や、区役所に届け出に行ったり、近所の手伝いや、引っ越しの準備などをして
います。心残りなのは去年の暮れに亡くなった祖母の遺骨がまだ家の下に残っていること
です。新学期からは滋賀県から2時間半かけて通学することになります。
大震災の甲南大生なまレポート(22);法学部2年次 Y.Sasayama ;
- 地震直後、僕は放心状態ながらもなんとか東灘区にある下宿のマンションから
出ると、あたり一面がほこりで真っ白になっていてとても息苦しかった。まわ
りは、木造建築が多く、そのほとんどが全半壊していた。鉄筋のビルも道路に
向かって横倒しになったり、一階だけがペシャンコにつぶれていた。マンション
の前のJRの高架を支える柱が全て倒れていた。道路もひび割れや段差ができている
ところを何度も通った。想像したことのない景色と空気が広がっていた。幸い
お金は何とか持ち出すことができ、近くのコンビニで2時間半並んで数個の
お菓子とジュースを買って空腹をしのいだ。ラジオでは配給の情報も流れて
いたが、僕らの所には回って来なかった。僕は下宿が近かった友人と近くの
グランドに避難した。夜は非常に冷え込み、避難している老人や子供のために
倒壊した家の木材を集めてたき火をして暖をとった。翌朝、公衆電話に並んで
家族に無事であることを連絡し、西宮北口まで4時間以上歩き、電車を乗り継いで
ようやく故郷の伊勢にたどり着いたが、途中で、いくつもの毛布にくるまれた死体
を目にした。後から知ったが、僕の友人も2人、命を落とした。
大震災の甲南大生なまレポート(23);法学部1年次 T.Nishizumi ;
- 下宿は、阪急王子公園駅とJR灘駅の間にある古い木造住宅が建ち並ぶ静かで街灯
の光が乏しい暗い地域で、風呂屋と弁当屋が多く、お年寄りと下宿生(おもに神戸大生)
の町でした。私の下宿も、木造一戸建ての一階全部を借りたものでした。私が
ハッと目を覚ました時にはすでに グゴゴゴー という不気味な地鳴りと共にベッドが
左右に激しく揺れていました。それは20秒程だったのですが、あまりの激しさに
地震という事もピンときませんでした。そのうち ガキガキー という大きな音がして
気がついてみると天井が目の前まで落ちてきていました。私はベッドに寝ていたので
ベッドの枠が天井をくい止めたおかげで怪我はありませんでした。私は、右腕と
右足と頭で障害物をかきわけながら暗闇の中を突き進みました。この時が一番、
恐ろしかったです。やっとのことで外に出られた時、心から「助かった」と思いました。
近所の人々もみんな、外に出てきていました。周りはもうめちゃくちゃで、顔見知り
の人が幾人も亡くなりました。ガスが漏れてあちこちで爆発し、火の手が上がって
いました。もう本当にこの世の地獄でした。パジャマ姿なのに寒さも感じず、腕、
足、頭から血を流していたのに痛みも感じず、ただ茫然と立っていました。
2階に住んでいた神戸大の下宿生にテレカを借りてすぐ実家に電話すると、母は
暢気な声で返事をするので、ついムキになって情況を説明し、早く迎えに来て
くれるよう頼みました。電話ボックスから出るとすでに20人くらいの人が
並んでいましたが、私の2人あとで電話もつながらなくなりました。結局、その日
は親にも来てもらえず、最寄りの小学校の廊下で毛布1枚だけで停電による長い夜
を過ごしたのですが、そこでも数限りない余震を経験し、朝から何も食べていない
空腹と凍てつくような寒さでたった一晩ですっかり体力を消耗してしまいました。
地震後の1ー2日は、ボランテイアは勿論、食料や水は全く来ませんでした。
結局私は、翌日、バイクで迎えに来てくれた父と伯父によって、八尾市の自宅へ
連れ帰ってもらいました。大阪駅で女子高生が騒いでいた姿が忘れられません。
少し場所が変われば全てがまるで違うのだと思いました。私は実家に帰ってからも
毎晩、悪夢でうなされ続けました。夜も電気を消して眠る事ができませんでした。
下宿の写真を同封します。
大震災の甲南大生なまレポート(24);法学部4年次 K.Kimuraya ;
- 下宿先の東灘区のマンションが半焼しました。地震発生時は試験勉強の最中、
灘区の友人のマンションで友人と共に不眠状態で勉強していました。「ゴオー」
という音と共に味わった事もないすごい衝撃がきて大きく揺れ始めました。
倒れおそいかかる家具などから身を守る事で精一杯でした。少し落ち着いてから
窓から外を見ると火柱が3本も燃え上がっていました。これはただ事ではないと
解ったものの、電気は一切使用出来ず、情報というものが無く、とりあえず
外へ出て何が起こったのかを知ろうとしましたが、外に出て茫然としました。
友人のマンションは鉄筋であったため何とか無事であったが、隣近所の木造建て
の家は、全て全壊と思える程でした。カーラジオの情報で初めて地震で
あることを確認しました。震度がいくらであるとかは、この際何の関係もなく
今、目の前で起こっている現実が全てでした。「今、おれ達は何をすべきなの
か?」倒壊したいえ、負傷した人々。道路は割れて、火は燃え上がっている。
時間が経過するに連れて恐怖がどんどん増してきた。実家や友人の安否が気に
なり、電話で連絡を取ろうとしたが、無駄な行為でした。私達は目の前で苦しむ
人々を救うことが先決であることに気が付きました。生存が確認されているが、
生き埋めになった人を救うので必死でした。そんな光景は周囲にいくらでもあり
ました。「子供が二人この中に。」という言葉を聞き、再び救出を続けた。でも
人力ではどうしようもない状態にまで追い込まれました。天災に対し、我々人間
の無力さを知り、涙が溢れました。報道関係のヘリコプターは、助けの叫び声
をもかき消す程、何台も飛び回るものの、救援の自衛隊のヘリコプターは1台も
飛んでこない。でも今はそんな物を頼りにする事もできず、人と人とが助け合う
だけだった。そして昼頃に初めて救援の車が走るのを見た時、再び涙が溢れた。
夕方にやっと私の下宿している東灘区のマンションに行くと、マンションは半分
以上黒くなっていた。周りからの火が燃え移った様子で火はおさまってはいた
ものの、私の部屋は、使えるものなど何一つ残ってはいなかった。その時、何よりも
命あることの喜びを感じました。この助かった命で出来る限りの事をしようと友人と
誓いました。実家との連絡もつかず、心配であった私は、ようやく夜になって
尼崎の実家へ戻りました。皆無事であったので安心しましたが、状況はすさまじい
ものでした。住む事に関しては何とかなることが救いでした。実家の復興を手伝い
友人で困る人の力になり、以前より続けていた焼き芋屋のバイトで無料で焼き芋
を皆に配り、出来る事をやり続けています。未だ落ち着く事もないけれども、
焼け死んでいてもおかしくないこの命を無駄にすることはできません。
私は、「生きる」という事の意義を少なからず身をもって知りました。
大震災の甲南大生なまレポート(25);法学部1年次 I.Takashima ;
- 私は、東灘区住吉本町の伯母の家に一人で下宿していました。部屋が一瞬ピカッと
光ると同時にすさまじい音と揺れが、私をおそった。私は何が何だかわからず
布団にうずくまったまま恐怖で体がふるえてうた。そして家を裸足で飛び出した。
幸い私のマンションは鉄筋コンクリートで崩れていなかったので夜が明けるまで
大したことないと思っていました。辺りが明るくなってきたので余震に怯えなが
らも部屋に戻りました。入口の傘立ての壺や全ての置物、食器棚のガラスのコップ
や皿、家中のすべてのものが粉々になり、家の中はガラスの破片でびっしりでした。
ベッドにもタンス、本、絵などが落ちていて、よくも無事で生きていたものだと
思いました。
姫路の両親が心配になり、家になんとか電話をかけようと、リュックに残ってい
た少しの水と食べ物を詰め、街へ出ました。街はたくさんの家が倒れ、病院の前
では、血にまみれた多くの人々が集まり、ガスの臭いが広がっていました。あち
こちで生き埋めになっている人がいるのに、自分一人でどうしようもなすすべが
なかったことが今になって一番悔しいです。4時間ほど歩いてやっと家に電話を
かけ、父の言うとおり自転車で姫路まで帰りました。
姫路に居ても神戸ではたくさんの人々が困っていると思い、翌日から友達や親戚
の人に声をかけて、買えるだけの水と食料をバイクにのせて神戸へ走りました。
そこで、私の父くらいの人が、自分も6時間くらい生き埋めになっていたが、先
に助け出された奥さんと息子さんが甲南病院にいるので、バイクにのせて行って
欲しいと頼まれました。病院では、奥さんが点滴を受けながら寝ておられ、息子
さんは足が2倍くらいに腫れあがって寝ていました。とても心が痛かったです。
その男の方は、自分の娘さんが亡くなったにもかかわらず、息子くらいの私に何
度も「スイマセン、どうもスイマセン、有り難うございます」とお礼を言ってく
れました。私達はほんの少し人を助けることしかできませんが、出来る限りのこと
をとバイクを走らせました。
政府は国民の安全と生活を守るためにあるのに、今回の地震ではそれができてい
ないと思えて非常に残念です。この地震で人の命の大きさなど、学校では学べない
貴重な体験をし、いろいろ学びました。
大震災の甲南大生なまレポート(26);法学部1年次 H.Kunimitsu ;
- 誰も予知はできないと言いますが、我が家で飼っている犬は間違いなく解っていたと
思います。5時35分頃我が家の犬が異常なほど家の中で吠えたのです。僕は犬をど
なりつけて、もう一度ベッドに入りました。その直後あのひどい出来事が起きたのです。
最初、ドズーンという大きな音でびっくりして目をあけると、ピカッという鋭い光と
共に大きな揺れが来ました。隣の部屋で食器などが割れる音が聞こえ、タンスが倒れ
家がキシキシときしんでいました。家族は声はするが何処にいるかわからない。ライ
ターで足元を照らしてリビングに行くと割れた食器の破片で足の踏み場もない。両親
は居たが、姉がいない。姉は倒れた本棚やタンスで部屋がふさがれて出られなかった
のです。
家族が一応無事でほっとしていると、余震がきて家がミシミシと鳴って、僕はもうだ
めだと思い、全員家の外に出て毛布にくるまっていた。その後宝塚市逆瀬台にある家の
周辺一帯に避難命令が出され、私達一家は大阪へすることにしました。家が山の斜面の
盛土の上に建っており、土砂崩れの危険があるというのです。近くの建築技師さんに
判断してもらったところ、見た目よりもひどく、到底住める状態ではないと言われ、避
難命令も出ていることなので大阪へ移り住んでいますが、復旧の目処がたたず、不安な
日々です。
大震災の甲南大生なまレポート(27);法学部1年次 K.Okada ;
- 寝ていた私は、最初の下から突き上げるような振動で目が覚め、次第に揺れが大きくな
っていった。物が割れる音、柱と柱がぶつかり折れる音、「ゴーッ」という地面からの
音、この3つが組み合わされてなんとも言えない不気味な音が40杪間続いた。実際は
私にはもっと長く感じられた。部屋はめちゃくちゃで電気も灯かないが、幸い家族は全
員無事だった。しかし、東灘区田中町にある家は無事とは言えなかった。南側の家が倒
れて寄りかかって来ているのである。柱が折れる音はこれだったのだ。
辺りは停電で真っ暗だったが、満月が沈んだ直後だったのか、空は不気味な明るさが
あった。見る限り原型をとどめた家はなく、人々のうめき声だけがきこえてきた。私は
必死になって救出にあたった。夜が明けてきて周りの状況がはっきり見えてくると、そ
れは全くすごいとしか言い様がなかった。
しかし、この時点で死者が5000人を超えることになるとは予想もしなかった。自己
中心的な考えだが、この辺りだけが被害を受けたのかと思っていた。とりあえず、水と
食料を確保しようと思って、コンビニへ行ったが、どこも長蛇の列で、品物はほとんど
なかった。残っていたのは雑誌と化粧品くらいだった。ようやく芦屋まで行って、何とか
少量のカップめんとジュースと電池を手に入れた。私達家族はなんとか持ちこたえた近く
の祖母の家に避難した。
大震災の甲南大生なまレポート(28);法学部1年次 H.Sekiya ;
- ドカーンという轟と共にむちうちになるくらいに揺れた。布団から出て暗がりの中で立と
うとしたらこけた。部屋中のものは勿論タンスの中のもの、引き出しの中のものまで全て
外に出てひっくり返っていた。電気もガスも水も止まった。家の中はぐちゃぐちゃで這い
つくばって家の外に出てみると、電信柱が倒れて電線が目の前に垂れ下がっている。
ここ芦屋市竹園町では、ほとんどの家が崩れ、道路をふさいでいた。前の家の人が、崩れ
た家に母が埋まっていると助けを求めにきた。とても無理だった。二階が一階になっていた。
三日後に亡くなって掘り出された。町内の若い者達が救援隊をつくって、埋まっている人を
掘り起こしてまわったが、名前を呼んで返事が返ってこない人は後回しにしていったからだ。
斜め前の家の人は昼頃遺体で掘り出された。隣の家は夕方女の人が助け出されたが、目が見
えなくなってしまった。左隣の家が我が家に倒れかかり、のしかかっていて、我が家も傾い
ているのがわかった。夕方には近所の崩れたパン屋の前に花が供えてあった。米屋もそれだ
けでわかった。町内至るところで布団にくるまれた死体が道に並んでいて家族が泣いていた。
電話も通じない。たくさん家が倒れた。たくさん人が死んだ。家のすぐ上の国道43号線
の高速道路が横倒しになっていた。2日ほど家にいたが、もうほったらかして大阪のホテル
で寝泊まりしている。昼間に家に戻って片付けものをしようとするが、どこから手を付けて
いいかわからない。いつ元に戻るかわからない。
大震災の甲南大生なまレポート(29);法学部2年次 H.Kizugawa ;
- 朝までバイトをして昼間寝てしまったので徹夜で勉強していた。午前5時頃眠くなったので
風呂に入り、朝ご飯を買いに近所のコンビニへ行って、そこで地震にあった。棚にあった商
品はほとんど全て落ちた。私は立っていられなくて頭を抱えて床にしゃがんだ。店の建物は
一階建てで新しく建物には被害はなかった。揺れがおさまってから直ぐに西宮市門前町にあ
る下宿に戻ってみると、壁にところどころ穴が空いていて柱にヒビが入っていた。私の部屋
は一階の一番手前だったので、瓦をどかして部屋へ入った。
建物が今にも潰れそうなので、革ジャンバーを着てガスの元栓をしめ、電気のブレーカーを
下ろした。するとまた余震がきて、建築後15年の木造2階建が斜めに傾いたのであわてて
外に出た。関学の友達の所へ行ってみると、建物は倒れていた。4、5人の人が居たので、
尋ねると彼は無事だと教えてくれた。しばらく待って戻ってきた彼と食料を買いに行こうと
先程の店へ行き、すこし多めに2、3食分買って私の部屋を見に行った。
下宿は既にペチャンコになっていた。周りの人に聞くと私達の棟は全員無事だったが、裏の
棟では生き埋めになっている人がいるので、皆で助け出そうとしているところだった。
奈良の実家に連絡ができたのは深夜だった。その夜は公園でたき火をして暖をとり、一睡も
しなかった。その間、食料や水の配給などは一度もなかった。実家に帰れたのは18日の夕方
だった。
大震災の甲南大生なまレポート(30);法学部4年次 F.Keyakida ;
- 22年間生きてきて文句無しに最低の目覚めだった。ベッドから跳ばされた。床に叩きつけら
れて目が覚めた。「何んや、何んや」と床に落ちた瞬間叫んでいた。夢かとも思った。咄嗟に
布団を頭からかぶった。3年間住んでいた小さな私の城が壊れてゆくのを肌で感じていた。怖
かった。揺れがおさまった後、私は布団の中で震えながら一つの言葉を呪文のように何度もつ
ぶやいていた。「夢でありますように....」。辺りは不気味なほどの静けさだった。
電気はつかず、電話の線は着れていた。暗闇の中手探りで部屋の惨状は想像できた。棚のもの
は殆どのものが落ちている。引き出しも飛び出している。ベッドのすぐ横にあった冷蔵庫までも
倒れている。食器もすべて割れてしまっているだろう。今、この部屋を突破して外に出ることは
困難だ。明るくなるまで待つ方がいい。ーー 私がこう判断したとき、ガラスが1000枚叩き
割ったような異常なもの音と女性の叫び声がきこえた。家がつぶれるまさにその瞬間の音だった。
その音が静寂を破ったかのように暗闇の中で人々が動き出した。「気いつけろ」という声がし、
懐中電灯のあかりが見えた。私は暗闇の中を這いつくばって外に出た。
つぶれた家の中から人が運ばれていた。動かなかった。顔は恐怖でひきつっていた。布団がかぶ
され、まわりをパジャマ姿の家族らしき人が囲み、すすり泣いていた。そんな光景を、つぶれた
家に囲まれながらも辛うじて生き残っている本山中町のマンションの5階の踊り場から眺めた。
”震源地は淡路島”と知った瞬間、私はひび割れた道路の上にすわりこんだ。「父は、母は、祖
父母は ...」。公衆電話を元め、私は祈るような気持ちで変わり果てた街並みをひたすら歩き続け
た。つながらない電話が多い。つながる電話には長蛇の列。根気強く私は歩いた。私の住むマン
ションのまわりの建物は、私の住むマンションと隣のマンション以外全てつぶれていた。向かいの
アパートの前の駐車場に年老いた人達が毛布にくるまって、つぶれた自分達の住まいを眺めていた。
そのそばには人が頭からかぶされている布団が4組あった。
国道2号線に出てみた。信号機は壊れ、異常なほどの渋滞、至るところで電柱が折れている。
銀行の前に立っていた時計は倒れていた。針は5時46分をさしたまま動かない。頭から血を流
している人と何度もすれちがう。ヘリの爆音。火の手が上がっているのが見える。ほこりと喧騒
の世界。「何なんだ、これは .... 」。私はまだ夢の中にいるようだった。
人間は1人で生きているのではない。色々な人の手がさしのべられているのだということも地震
に逢うまで気付かなかった。小学校で数少ない食料をわけてくれる人がいた。
18日の早朝、私は大阪に住む弟に連絡をとるため公衆電話を求めて歩いた。4、5ヶ所まわっ
たが使えず、あきらめていた時、道行く見知らぬおばさんが「うちの電話使えるからおいで」と
言ってくれた。山手幹線より上の方はまだ被害が少なかったらしく、そのおばさんの家は電気も
通っていた。おばさんはホットコーヒーを出してくれた。暖かった。弟は力強く「来い」と言って
くれた。弟がいることに心から感謝していた。
私は弟のもとへむかうべく、電車が通っている最西の駅、阪急西宮北口まで歩いた。何時間歩い
たのか覚えていない。梅田でJRにのりかえた。女子高生のグループが制服を着て笑っている。女の
人が化粧をして、かかとの高い靴をはいてすましている。東淀川の駅をおりると、コンビニが営業
している。自販機もつかえる。そんな当り前の光景が不思議だった。弟の顔を見た瞬間、緊張の
糸をやっと切ることができた。「怖かった。怖かった。」とわたしは子供のように泣きじゃくった。
私は第2の故郷神戸も、生まれ故郷である淡路島は未曾有の被害をうけた。大阪へ逃げてきてから
一週間、テレビの前で私は毎日泣いていた。
今回の地震は、あらゆるものを壊してしまった。私は考えた。ものは壊れる。一瞬でなくなって
しまうはかないものである、と。それでは一体何が残るのか。何が人間を支えていくのだろうか。
それは身に付けた教養であり、技術であり、知恵であるのではないかと私は思う。人との信頼関係
や仲間なのではないかと思う。私もいわゆる世間一般の女子大生であった。服やアクセサリー、靴
など身を飾るものにお金をかけることが自分を磨くことだと信じて疑わなかった。しかし、今では
そんなものの一切が色あせて見える。しょせん身を飾るものにすぎないということに気付かず、
そんなものに金と時間と神経を使い続けてきたのだ。愚かしいことである。
東灘区のマンションは管理人を含めた全員が避難しており、入口は閉められています。オートロック
でカード式のキーで開けるようになっていますが、その肝心のカードキーを地震のため紛失してし
まい、管理人もいないので、マンションに入ることができません。こういった形のレポートになって
しまったことを残念に思います。
甲南大学もかなりの被害だと聞き、胸をいためています。自然の気まぐれないたずらは無情にも
あらゆるものを破壊し、奪ってしまいました。これからの人生は助かった命を無駄にすることなく
一日一日を大事に生きていきたいと思います。大学生活の最後にやっと学ぶことの大切さを知りま
した。
以上
11番以降は生物学科の先生及び法学部の先生からレポート見せていただいたものです。まだ限りな
くありますが、連載はこれにて一先ず終わります。文章は原文になるべく忠実に、しかし多少圧縮させていただきました。
甲南大学 山本嘉昭
hibino@n.kanagawa-u.ac.jp, Feb. 25, 1995